**資料は全て、「武雄市図書館・歴史資料館 武雄〜鍋島家・温泉・やきもの〜」から、取り上げさせていただきました。**
―武雄鍋島家の時代―
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―武雄後藤家―
武雄鍋島家は、20代まで後藤を名のっていました。前九年の役(1051〜62)で戦功のあった後藤章明(のりあきら)が、塚崎荘の地頭となったのが始まりとされます。 その後、後藤氏は、時代を追うごとに勢力を広げ、戦国時代には杵島郡内の有力豪族に成長しました。後藤家19代貴明の時、勢力は最大となり、大村氏との抗争を繰り返しました。しかし、家督争いによる混乱を治めようと、龍造寺隆信に助力を求めたため、その勢力に下に吸収されてしまいました。 |
![]() 後藤貴明像(武雄市重要文化財) 貴明の死から5年後の天正16年(1588)に造られ 、貴明の姿を伝える唯一のものです。背中中央と体 内背面下部に、仏師などを記した墨書の銘文があり ます。 |
![]() 薬師如来像(佐賀県重要文化財) 承安2年(1172)に造られたもので、 北方町の勧喜寺 (かんげじ)に祀られています。背面の銘文にある「藤 原宗明」は武雄後藤家4代宗明のことで、後氏関する 最も古い記録です。 |
後藤家は藤原鎌足の子孫とされ、もともと藤原氏でした。章明の父則経のとき、その父公則が
肥後守(ひごのかみ)であったため、肥後と藤原の一字ずつをとって後藤を名のり始めたといわれています。
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―武雄鍋島家の成立―
後藤家20代家信は、「五州二島の太守(たいしゅ)」と称された戦国の雄、龍造寺隆信の三男で、後藤家の養子となった人物です。戦国の世を経て、佐賀領国の実権が龍造寺氏から鍋島氏に移ったとき、後藤家もその家臣となり、21代茂綱(しげつな)からは鍋島姓を名のりました。 龍造寺家直系として多久・須古鍋島・諫早とともに「親類同格」に列せられた武雄鍋島家は、「大配分(だいはいぶん)」(自領内での大幅な自治権)を受け、本藩家老をつとめる家柄として、重要な役割を果たすようになります。 |

茂綱は鍋島姓を名のる前に、龍造寺や武雄の姓も用いました。その正確な時期はわかりませんが、
40年たらずの間に3度も改姓しています。戦国末期から江戸初頭にかけての不安定な勢力構図
を写しているようでもあります。
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―佐賀藩と武雄領―
武雄領主は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の朱印状で、領地19,700石余を安堵されました。 その後、鍋島氏が佐賀の実権を握ると、2度の三部上地(30%の献納)が行われ、収入高は8,640石に減りました。武雄が上地した地域は、本藩領と、新しく設けられた三支藩のうち、蓮池藩の領地となりました。 こうして武雄領は、近世佐賀藩の体制下に、再構成されて行きます。 |
佐賀藩構成図

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―住まい―
武雄領主は、戦国の一時期に住吉城に移った以外は、代々塚崎城を居城としました。塚崎城は、現在の武雄高等学校の位置にあり、背後の御船山を天然の要害として建てられた山城です。もともと、本丸・二ノ丸・三ノ丸を備えていましたが、元和元年(1615)の一国一城令によって取り壊され、領主の屋敷と諸役所を残すのみとなりました。武雄の領主は、佐賀にも屋敷を持ち、一年ごとに佐賀と武雄を往復して暮らしていました。 |
![]() 御煙草盆と煙管―携帯用の煙草盆です。煙草盆は、 喫煙が普及し始めた寛永年間の初め(1625年頃)、 それまで個々に使用していた煙管、火入れ、煙草入れ、 灰落としなどをあり合わせの盆にまとめたことから始 まりました。 |
![]() 枕―台部分に武雄鍋島家の家紋「抱き銀杏」が描か
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―装い―
武雄領主の装いは、文久2年(1862)の「浄天様御遺物出方御反物御衣装控他」や、明治5年(1872)の「御夜具、御衣装帳」などに、その一端がうかがえます。それらによると、浄天(茂義)の没後、残された反物や衣装が、家族や家臣に配分されたこと、また「御夜具、御衣装帳」の書き込みから、夜具・衣装類が、たびたび整理されながら利用されていたことがわかります。いずれにも、久留米絣(かすり)、八丈紬(はちじょうつむぎ)、越後縮緬(えちごちりめん)、秋田織(おり)など、幅広い産地の名前が見えます。 |
![]() 兜 |
![]() 御陣羽織―箱書きに「天保八年(1837) 改御陣羽織」とあることから、28代鍋島 茂義着用のものと推察されます。 |
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―御用絵師(ごようえし)と書画―
武雄領主の御用絵師を代々つとめたのは、広渡家でした。20代の後藤家信に起用され、一時は途絶えたものの、昭和初期まで絵師の家柄を保ちました。なかでも名高いのが、京都遊学中に禁裏(宮中)の御用を命じられ、寛文4年(1664)「法橋」の官位を受けた心海と、幕末期に活躍した心海です。前者を法橋(ほうきょう)心海、後者を良寛(りょうかん)心海と呼んでいます。 28代の鍋島茂義は皆春斎(かいしゅんさい)と号し、画芸にも長じて、多くの作品を残しています。 |
![]() 広渡心海(1065〜1685) 広渡家4代。通称は法橋心海。 |
![]() 広渡心海(1806〜1888) 広渡家8代。通称は良寛心海。 一時途絶えていた広渡家を継ぎ ました。 |
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―趣味と学問―
「武家諸法度(ぶけしょはっと)」の冒頭に「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」とあるように、江戸時代、学問と武芸は武士に必須の教養でした。茶の湯や生け花、能、和歌なども、武家のたしなみとして重要視されました。 武雄鍋島家にも、能、和歌などの資料が多く残されています。しかし、長崎警備との関わりや、「鍋島論語」と呼ばれる「葉隠」の影響からか、蘭学をふくめた軍学関係の資料がとくに充実しています。 |
![]() 南樞志(武雄市重要文化財)―南樞とは明(1368〜 1644)の首都南京のことです。この本は南京を中心 とした明代兵政史のようなもので、1638年頃に成 立したと考えられます。世界的にも台湾の国立中央 図書館所蔵の48冊と、武雄の78冊の2組しか確認 されていません。 |
![]() 御歌かるた |
![]() 能面「中渇食」 |