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*資料は全て、「武雄市図書館・歴史資料館 武雄〜鍋島家・温泉・やきもの〜」と、
「武雄市図書館・歴史資料館 平成十五年度 特別企画展 温泉和みの空間」から取り上げさせていただきました。


―武雄の温泉―

―武雄温泉の由来と伝説―
武雄温泉は、730年頃に編纂(へんさん)された「肥前国風土記(ひぜんのくにふうどき)」にも登場する歴史のある温泉です。古くは塚崎の湯、塚崎(墓崎・柄崎)温泉などと呼ばれていました。文禄・慶長の役のおりにも、伊達政宗ら、全国から集まった多くの将兵が武雄温泉を訪れました。 江戸時代、18世紀中頃に入ると、塚崎は長崎街道の宿場町としてにぎわいました。伊能忠敬の測量隊やシーボルトなど著名な人物も立ち寄り、紀行文や日記に、武雄の温泉のことを書き残しています。

武雄温泉年表(人物*年号は武雄温泉訪問の時期)

武雄温泉年表

天平年間
(730頃)

「肥前国風土記」杵島郡の条に武雄の温泉が記される。

仁治3年
(1242)
聖一国師が宋からの帰りに温泉に滞在し、廣福寺を開く。
天正2年頃
(1574)
龍造寺隆信が温泉に浴する。
天正20年
(1592)
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、肥前名護屋に集められた武将たちが温泉に浴する。秀吉が入浴の心得を定めた掟書を出す。
元和3年
(1617)
佐賀藩祖鍋島直茂が療養のため温泉に浴する。
享保2年頃
(1717)
長崎街道が塚崎宿を通るようになり、湯町が栄える。
明治元年
(1868)
温泉が国有となる。
明治8年
(1875)
温泉が柄崎温泉組に払い下げられる。
大正3年
(1914)
辰野金吾設計により温泉楼門・新館が建てられる。

伊達政宗
文禄元年(1592)頃

トゥーンベリ
安永5年(1776)

シーボルト
文政9年(1826)

川路聖謨
嘉永6〜7年(1853〜4)
 

宮本武蔵
寛永後期(1640)頃

太田蜀山人
文化2年(1805)

吉田松陰
嘉永3年(1850)


秀吉朱印状(武雄市重要文化財)―秀吉の朱印がある天正20年(1592)の
「塚崎温泉掟書(さだめがき)」です。名護屋に駐屯した多くの将兵が、戦陣の
疲れをいやすために武雄の温泉を訪れました。彼らが地元の人々に迷惑をか
けることもあったことから、秀吉はこれを取り締まる掟を出しました。


―近代の温泉―
明治28年(1895)に武雄駅が誕生、「武雄温泉」の呼び名が一般的になりました。 武雄温泉のシンボル、朱塗りの楼門が建てられるのは大正3年(1914)。東京駅などを手掛けた辰野金吾の設計になります。 大正11年、武雄温泉株式会社が成立。このころまで、旅館の泊まり客はこの温泉を利用していましたが、昭和初期(1926〜)には混雑を避けるため、各旅館に温泉がひかれるようになりました。


武雄温泉名勝案内―武雄温泉を中心に、近隣の名勝・観光地などを描いた鳥瞰図。
裏面に、温泉の歴史や効能が記されている。


武雄町温泉場春景之図―画面中央右寄りに、現在も残る武雄温泉元湯の建物、
左下に明治28年(1895)に開通した武雄駅が描かれている。


武雄町交通鳥瞰図(複製)―1600点以上の鳥瞰図を作成し、「大正の広重」と呼ばれた
吉田初三郎(1884〜1955)によって描かれたもの。

 

―温泉のにぎわいとまつり ―

武雄温泉春まつり(4月)
華麗な神功皇后行列が繰り出します。

灯篭まつりと盆おどり(7〜8月)
300余の手づくり灯籠が映えます。

武雄くんち(流鏑馬)(10月)
(武雄市重要無形民俗文化財)
800年以上の伝統を今に伝えます。

 

―武雄温泉の科学―
武雄温泉は、もとは桜山の流紋岩岩脈(りゅうもんがんがんみゃく)から湧き出していました。現在は地下140〜300mまで掘り下げ、第3期層と流紋岩の接触面から湧き出た温泉水を汲み上げています。また、保養村にも泉源があり、地下約500mの深さまで掘り下げ、第3期層の変朽(へんきゅう)安山岩にともなって湧き出た温泉水を汲み上げています。いずれも主な泉質はアルカリ性単純泉で、神経痛・筋肉痛・慢性消化器病などに効能があります。


温泉のしくみ―陸地に降った水の一部は地中にしみ込み地下水となります。
火山の近くでは深部から上昇してきたマグマがマグマ溜りをつくり、1,000℃
以上の高熱を発散し、ある程度冷却して岩石となった後も熱を出し続けます。
地下に入った水がこの熱に温められ、貯留層に溜ったのが御泉水です。


佐賀縣武雄温泉場建築圖